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「かけてる感」と「着ている感」

こんにちは。やっとファイアーエムブレムが終わったLazy8です。最後はかなり駆け足で進めたので全然やり尽くせてないのですが、ついもったいないから少しずつ進めようとゆっくりやってると旬な時期を逃してしまい、気がついたら内容を忘れてクリアしないで放置してしまうみたいなことがありがちなので、とりあえず終わりまでいけたのはよかったなあと思います。昔のFEのような詰め将棋的な感じは全くありませんでしたが、いいキャラゲーだったと思います。

 

なんとなく思ったことがあるので雑談します。

あえて言明するまでもなく、わたしは眼鏡をかけた女子が好きです。が、よく誤解されるのですが、「女子が眼鏡をかけている」のであれば好きなのだ、というわけではないのです。

眼鏡をかけた女子の画像をください」みたいなまとめに載っている画像のほとんどは話にもならないというか、「眼鏡をかけた女子」ではなくて「眼鏡をかけさせた女子」ではないか。非メガネの女の子にPhotoshopで眼鏡を合成すればメガネの女の子になるわけではないということは、分かってる人には説明する必要がないと思うのですが、こういう画像の数々があり、それを嬉々としてアップするような方もいらっしゃるわけで、世の中にはどうしても分かり合えないものがあるのだということを痛感します。だから大人は争うのですね。

 眼鏡をかけた女子に大切なことはいろいろありますが、その1つは「かけてる感」だと思います。普段から眼鏡をかけているのか、それとも撮影でかけただけの眼鏡なのか、人間の認知能力はなぜかこれを察することができます。この人はいつも眼鏡をかけてるんだろうなとか、もはや眼鏡と不可分の感じというか、そういう「かけてる感」がないと眼鏡はすぐに嘘くさくなります。そもそもメガネ女子はそんな嘘から最も遠いところにいる人たちであって、そのためにわれわれは愛でるのであります。

 この「かけてる感」は絵にも適用できる考え方だと思っています。眼鏡の女の子のイラストは結構ありますが、「かけてる感」のある絵はそんなに多くはないと感じてます。あるイラストのどの点が「かけてる感」を生じさせているのか、これは現象学的探求の対象でもありましょうが、最終的には描き手がどんな眼鏡の女の子を好きなのかに落着するような気がしています。

同じようなことが制服にも言えるのではないでしょうか。眼鏡と同様あえて言明するまでもなく、わたしは制服姿の女子も大好きですが、これもまたよく誤解される趣味です。エロビデオに出てくる「女子高生」の定番と言えばセーラー服に赤いスカーフだったりしますが、登場人物が「女子高生を演じている」ことは分かっても「女子高生である」とは見えないですよね。エロビデオや風俗など、性産業における「制服」は全てそんな感じだと思います。わたしはこういう「制服」に1ミリも心が動きません。制服がそのあるべき世界と切り離されているからです。

ところで9月2日のコミティアではサークル「憧憬画廊」さんのお隣になります。描き手の大城ようこうさんは四季賞出身でgood!アフタヌーンに「こはるの日々」を連載中というわたしなんかは目がくらむような方なんですが、いい機会なので「こはるの日々」を読みました。とてもよかったです。かわいいし。大城さんは静岡県の浜松市在住とのことで、作品の舞台も同じのようです。

 感じ入った点の1つを引用で紹介させてください。

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 おわかりいただけたでしょうか。高校生が主役の作品で、女子の制服はザ・県立高校という感じのベストとスカートの上下です。で、赤でくくった部分ですが、ベストの下のブラウスがぴったりスカートに入っているのではなく、ふくらんだ部分がスカートのウエストにかかっている、という描写です。ベストの下のブラウス部分を描くだけでもすごいと思うんですが、それがウエストにかかってるところまで描かれています。そうだ、確かにこんなのだったなあと思います。ここにあるのは「制服を着た高校生の女の子という記号」への志向ではなく、実際に制服を着て日々を暮らす高校生をあるものとして描こうという意欲です。小さなポイントですが、生きた高校生活を感じさせる描写だと思います。

眼鏡に「かけてる感」が必要なように、制服にも「着ている感」がいると思っています。 制服姿の女の子(の記号)の絵は洗練が進んでいますが、女子の制服の着ている感がよく描かれている漫画などはあんまりないように思います。これには仕方がない面があって、というのも「着ている感」は制服のある種の本質を十分に表現してしまう、要するに制服というものが本来持つ野暮ったさをも醸すことになります。われわれのような人種にとってはこの野暮ったさも制服愛の重要な1ピースとなっているわけですが(大城さんはベストの下のブラウスが萌えポイントなのではないかと勝手に推測しています)、そんな制服女子が好きだという人は実は少数派でありまして、「オタの人はそういうのが好き」ということも全くないことを長年の観察で確認してきました。世の中的にもオタ的にもAKBの制服風衣装のようなものが「かわいいのメインストリーム」だったりします。洗練と野暮は対立するものですし、これは都市と田舎、東京と地方に対応します。そして多数派はそれぞれの前者です。

つまり少数派の好みの話ではあるのですが、漫画によってはこの制服の「着ている感」が重要になってきます。「こはるの日々」で、いかにも県立高校っぽい制服の「着ている感」を表現することは、浜松を舞台とした恋物語を「漫画として」成立させるための必須条件ではなかったかと思います。上で引用したシーンは1巻の第1話です。わたしたちは冒頭から浜松に住む高校生の生活世界にごく自然に入り込んでいけるでしょう。ベストの下のブラウスの描写は確かに小さな部分で、読み手はそこに意識を向けないかもしれませんが、全体を構成するのは部分であり、読み手が抱く全体の印象はこうした部分からできあがっているものです。制服とそのイメージ、そこに付着する世界と生活を読み手に喚起する力が漫画にあるのだとしたら、それはこんな部分にも宿っているのだと思います。

制服の「着ている感」を表現しないのであれば地方を題材にする意味もないように思います。地方を舞台にしたことをうたうアニメなどが結構出てきましたが、往々にしてこのミス(意図的でしょうが)を犯し、東京の女子高生といっても違和感がない女の子を田んぼの真ん中とか海辺に置いて「はいはい地方地方」みたいなものが散見されたりします。でもそうした作品がそれなりに人気を博してしまう状況もあって、わたしたちのようなマイノリティはそっとため息をつくのです。地方を舞台にするのか、地方をネタにして背景の絵として使うのか──の間には越えがたい厄介な深淵が横たわっていて、「中央と地方」あるいは「中央が地方を見る視線」という、東京では震災とそれに続く不幸な事故でようやく気づいた人もいただろうという難問にも行き当たります。「着ている感」の探索は萌えの政治学にもつながるのです。

というのは半分は冗談ですが、わたしは絵的な力の不足もあり「着ている感」を操る妙境には達していないと感じることが多く、精進を続けたいと思った次第です。曲がりなりにも自分で描くようになって初めてこういうところに気がつくようになったのですが、 描き手の方々の表現しようという強い意欲は一見して小さなところにもよく現れているという話です。